不動明王ならびに八大童子 | ふどうみょうおう ならびに はちだいどうじ |
- 概要
鎌倉時代の大仏師運慶の孫にあたる康円の手による「不動明王ならびに八大童子」は、当寺の本尊として六角堂(不動堂)に奉安されています。旧国宝で、現在は国重要文化財に指定されています。 八大童子を従えた不動明王像は関西では高野山に安置されている運慶作の尊像、関東ではこの康円作と、国内ではわずか2体しか残っていません。しかも同一作者によって製作された「不動明王ならびに八大童子」が現存しているのは当山だけであり、極めて貴重な文化財です。 - 八大童子の名前
指徳童子、阿耨多童子、烏倶婆童子、制多伽童子、矜羯羅童子、清浄童子、恵喜童子、恵光童子。 - 製作
文永9年(西暦1272年)11月21日に完成したものと判明しています。金剛仏師乗恵以下四人を勧進沙門とし、大仏師法眼和尚位 「康円」、絵仏師法橋上人 「重命」によって製作。 (清浄童子像の胎内願文(こちら)より判明)胎内願文には「謹んで当寺の伽藍に安置して内外の魔障を除かんと欲す」とあります。元の大軍が大挙して来襲して来た2年前にあたります。
| | - 由来
かつて奈良内山の永久寺奥の院に不動明王と八大童子がまつられ、この尊像は日本三大不動のうちの一つであるとされていました。 元弘年間の兵乱で後醍醐天皇は笠置の城をお出になりこの内山にお住いになりましたが、鎌倉の家臣であった深須の入道松井蔵人やその雑兵数百人が、天皇を追って西北の門に攻め寄せ味方の死傷者が続出し、山内の防禦もおぼつかなくなりました。 その折、どこからともなく八人の大男が現れて敵勢に打ち向い、その勇敢さに敵味方とも驚嘆してしまいました。 戦い終って或る僧がその大男の帰る後をつけていきますと、不動堂に入っていくのを見とどけました。 翌朝、その僧はお堂に入って探したところ人気はなく、唯、八大童子のお足が泥まみれになっているのに気づいたと云う事です。恐らく八大童子が後醍醐天皇を守護されたのでしょう。 又、奈良矢田の東福寺の住僧が難病にかかり、なかなか癒らずにいた折このお不動様にお願いしたところ、忽ちに平癒し、その報恩の為鐘を寄進したと云う事です。 銘にいわく「時惟元徳元年甲子11月28日」と記されていたそうです。 |
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