シトクドウジ アノクタドウジ ウグバカドウジ セイタカドウジ フドウミョウオウ コンガラドウジ ショウジョウドウジ エキドウジ エコウドウジ
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■清浄童子像の胎内願文(がんもん)により、金剛仏師乗恵以下四人を 勧進沙門(かんじんしゃもん=社寺や仏像の建立、修理などのために広 く人々に勧めて金品の寄付を募る僧侶)とし、大仏師法眼和尚位康円、 絵仏師法橋上人重命(ちょうめい)によって、文永9年(西暦1272年) 11月21日に完成したものと判明しており、昭和12年8月25日には旧国 宝(現重要文化財)に指定されています。 尚、胎内願文には「謹んで当寺の伽藍に安置して内外の魔障を除かんと 欲す」とあり、元の大軍が大挙して来襲して来た2年前にあたる。 ■一具の像として元奈良県内山永久寺所蔵。像はいずれも檜の一材から 根幹部を作り、首柄や両足を割り矧ぎ(=つぎあわせること)、これに 手や条帛(じょうはく=絹製の衣服)・天衣(=肩から胸に垂らしてい る長い布)を矧ぎつける、康円一流の用材法になるもの。 彩色も胡粉(ごふん=白色顔料。イタボガキという殻でつくる粉末)下 地を施した上に、肉身部はそれぞれ群青や白・朱・黄・緑青を塗り分け 衣紋(えもん=衣服)には細金(さいきん=きりかね)や金泥(きんで い=金粉をにかわで溶いた顔料)を用いて精緻華麗な装いをこらしてい る。一部の持ち物を除き、不動明王の木製火焔光(かえんこう)や各像 の台座など当初のもので極めて保存がよい。 像高は不動明王110cm、童子約40〜60cmである。 |
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■康円 1207〜? 鎌倉時代の慶派仏師。運慶の第二子康運の子と 伝えられるが明らかでない。蓮華王院(三十三 間堂)中尊千手(せんじゅ)観音造立に大仏師 湛慶のもとに小仏師として携わり、また湛慶没 後東大寺講堂千手観音像を完成させるなど、運 慶三代目を代表する仏師。作風は慶派正系のそ れを受継ぎながら誇張と説明的描写が目立ち、 特に群像表現にその特色を発揮している。 |
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■このお不動様の由来 かつて奈良内山の永久寺奥の院に不動明王と八大童子がまつられ、この尊像は日本三大 不動のうちの一つであるとされていました。 元弘年間の兵乱で後醍醐天皇は笠置の城をお出になりこの内山にお住いになりましたが、 鎌倉の家臣であった深須の入道松井蔵人やその雑兵数百人が、天皇を追って西北の門に攻 め寄せ味方の死傷者が続出し、山内の防禦もおぼつかなくなりました。 その折、どこからともなく八人の大男が現れて敵勢に打ち向い、その勇敢さに敵味方とも 驚嘆してしまいました。 戦い終って或る僧がその大男の帰る後をつけていきますと、不動堂に入っていくのを見と どけました。 翌朝、その僧はお堂に入って探したところ人気はなく、唯、八大童子のお足が泥まみれに なっているのに気づいたと云う事です。 恐らく八大童子が後醍醐天皇を守護されたのでしょう。又、奈良矢田の東福寺の住僧が難 病にかかり、なかなか癒らずにいた折このお不動様にお願いしたところ、忽ちに平癒し、 その報恩の為鐘を寄進したと云う事です。 銘にいわく「時惟元徳元年甲子11月28日」と記されていたそうです。 以上は内山永久寺置文より抜すいしました。 尚、このお不動様のように八大童子を従えて居られるのは、関西では高野山にある運慶作 と関東では当山奉安の康円作と日本にわずか二体だけと云う極めて貴重な重要文化財であ ります。かつ、同一作者によって製作された「不動明王ならびに八大童子」が現存してい るのは当山だけです。 |
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|胎内願文| | ||||||||||||||